好きな一行、本読まなきゃ。

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ドストエフスキーから読む、悪魔的理論の実践

 

罪と罰〈上〉 (新潮文庫)

罪と罰〈上〉 (新潮文庫)

 
罪と罰〈下〉 (新潮文庫)

罪と罰〈下〉 (新潮文庫)

 

罪と罰(ドストエフスキー)からの一行。

人間は自然の法則によって二つの層に大別されるということです。つまり低い層(凡人)と、これは自分と同じような子供を生むことだけをしごとにしているいわば材料であり、それから本来の人間、つまり自分の環境の中で新しい言葉を発言する天分か才能をもっている人々です。

 

僕の大好きな作家、ドストエフスキーのエグい一文。

罪と罰の主人公、貧乏学生のラスコーリニコフは、この理論を元に、生殖材料であり、社会の”しらみ”である、悪徳金貸しの老婆を殺害し、金を奪う。

その金を元に社会を変えていく一歩を踏み出そうというのだ。

彼の言葉を借りれば、百の善行の前に一の悪行は許されるという理屈。

社会を良くできる自分のような天才が、社会を良くする元手を得るために、殺人を犯す。これは許されて然るべきである。ナポレオンだって、あれだけの大量殺人を犯しながら、賞賛されているのだから、と続いていく。

 

昔、流行った、マイケルサンデルの「これからの正義の話をしよう」にでてくる1人の犠牲で5人を救うことは許されるのか、という問いと構造は似ている。

 

ただ、僕が印象に残ったのは、理論の正否・良し悪しの議論よりも、理論の実践(主人公曰く”しらみの殺害”)後の、主人公の苦悩である。

 

この苦悩を追いかけていくだけで、小説にどっぷりはまって抜けられなくなる。

 

お金を奪った後も、主人公は、殺人の罪の意識に悩まされる。

理論にのっとれば、生殖材料に過ぎない人物の削除であり、大いなる善行のための”小さな悪行”であるはずなのに。

やがて主人公は、破滅への道を自ら進む。

気づいたのだ。

 

完璧な理論をこしらえても、自分には実践ができないこと、

理論構築と実践はあまりにも別の行為であることに。

 

ドストエフスキーの叫び、”人間の本性を忘れた理性だけによる改革が人間を破滅させる”(解説より)が、約1000ページにわたる苦悩の物語を読むことで、自分の中に染み込んでくる。

 

頭でっかちになって暴走しそうな人に読んで欲しい、

「まあ、肩の力を抜いて、人間的に考えてみようや。神様じゃあるまいし、あなたの理屈が100%正しいわけじゃないんじゃないかな」

と、そっと諭してくれる小説だった。