不幸は不幸によって癒される
罪と罰(ドストエフスキー)からの一行
おい、亭主、おまえが売ってくれたこの小びんが、おれを楽しませたと思うのかい?悲しみさ、悲しみをおれはびんの底に求めたんだ
貧困にあえぐ登場人物、昔は官吏だったのに、自らその職を捨てる。
そのため、娘は娼婦になり、家計を支えることになる。
父親は娘の給料を持ち出し、居酒屋で酒に変えて、すぐにびんを空にする。
仕事を得て、まともになったかと思えば、すぐやめて、給料を全部酒につぎ込む。
母親は発狂して死ぬ。父親は馬車に轢かれて死ぬ。
残された小さな子供を娼婦は養わなければいけない。
しかし、父親の葬式の日に、賃貸していたアパートから追い出される。。。
実際の文章を読まないと、この絶望的な不幸は伝わらないけど、ドストエフスキーの描く不幸には、中毒性があって、思わずのめりこんでしまう。
行き過ぎた不幸は書き方を間違えれば、陳腐になるけど、ドストエフスキーの不幸は妙なリアリティをもって迫ってくる。ロシアの話なのに。
逆説的だけど、絶望的な不幸は、自分の気分が落ちている時、嫌なことがあった時に、ふれると癒しになる。
自分の不幸が相対化されて、大したことじゃないように感じるから。
中村文則、太宰治も好きで、不幸なもの、陰のある作品が元々好きというのも理由だが、ドストエフスキーには、助けられていて、気分が落ちた時に意図的に読んでいる。
多分、本物のファンからしたら間違った読み方なんだろうけども、自分が悲しい気持ちの時に、中途半端に幸福な物語にふれると、とても空虚に感じてしまう。。
やっぱり、ひねくれているからか。