好きな一行、本読まなきゃ。

好きな一行を切り口に、その本が読みたくなるブックログを目指してます。

月と六ペンスから考える魂を揺さぶる芸術

 

月と六ペンス (新潮文庫)

月と六ペンス (新潮文庫)

 

 月と六ペンス(サマセットモーム)からの一行。

美とは、芸術家が世界の混沌から魂を傷だらけにして作り出す素晴らしいなにか、常人がみたこともないなにかなんだ。 

美とは芸術家が鑑賞者たちに聴かせる歌のようなものだ。その歌を心で聴くには、知識と感受性と想像力がなくてはならない

中学生のころから、ずっと気になっていた小説、月と六ペンスをやっと読めた。中学生の頃、サヨナライツカという小説で登場人物が暮らしているホテルのスイートルームの名前として、サマセットモームを知り、響きがオシャレだと気になっていた。しばらしくしてから京都に行った時に、月と六ペンス、という名前のカフェを見つけて、響きを気に入った。ネットで調べたら、サマセットモームが著者ということで、この小説を知った。何だかんだ縁があるけど、ずっと読めていなかった本。

 

名前の雰囲気からして、魔女の宅急便みたいなファンタジー小説かと思ったら、全然違って、ゴーギャンという芸術家の生涯を描いた小説だった。1ページ目を読んだ時に期待と違う内容で、面食らったけど、おもしろすぎて夢中になって読んでしまった。気づいたら日曜日の午後が終わっていた。

 

1人の芸術家の生涯を色々な視点で描き、ゴーギャンという人間だけでなく、そこから見える芸術論にまで踏み込んだ作品。この本を読んで、芸術というものに縁のない人生を送ってきたことをとても後悔した。教養だとか、審美眼だとか、そういった外面のためではなくて、芸術に浸る良さ、をこの小説は教えてくれる。

 

また、芸術家なんで、自己顕示欲の塊という偏見も変わった。一部の天才がピュアな創作意欲を持ち続けると、人智を超えた宇宙的なものを発見できる。そんなパワーが芸術にはある。だから、生前有名になるより、死んだ後に有名になる方が芸術家としては、ピュアな意味で幸福なのかもしれないと思った。周りの雑音が聞こえないから。ゴッホが耳を切ったのも、ピュアでいたくて、雑音をシャットアウトしたかったからかもしれない。多分違うけど。

 

登場人物たちがゴーギャンの絵に感化され、その良さを語る部分はどれも美しくて、インスタントじゃない本物の感動は心じゃなくて、魂に響くものなんだろうな、と想像できた。だけど、自分には、その感動の1%も味わうことができないことが分かっている。なんと浅い人生を送ってきたのでしょうか。生まれ変わったら、もう少し芸術に縁のある幼少期を体験したかった。

 

今度の週末は、美術館にいってみたい、という気分にさせる、小説だった。

 

【こんな人に読んで欲しい】

ピカソとかゴッホとか知識としては知ってるけど、画家にも芸術にも興味がない人

伊坂幸太郎の道徳(モダンタイムス)

 

モダンタイムス(上) (講談社文庫)

モダンタイムス(上) (講談社文庫)

 
モダンタイムス(下) (講談社文庫)

モダンタイムス(下) (講談社文庫)

 

 モダンタイムス(伊坂幸太郎)からの一行。

人間は大きな目的のために生きているんじゃない。もっと小さな目的のために生きている。

あまりにも大きな問題に直面した時、 とるべき道は2つ。目を逸らして回れ右をするか、悪あがきをするか。

 

伊坂幸太郎は、悪あがきを推奨する作家だと思う。伊坂作品というと、軽妙な会話、気の利いた比喩、爽快感のある伏線回収が特徴的だ。そういうエンタメ的楽しさを通じて何を伝えたいのか?

 

「大きな物語の前で人は無力だ。だけど、今この瞬間に正しいと思うことをしよう。無駄な抵抗でもいいじゃないか」ということだと思う。モダンタイムス、魔王、砂漠、重力ピエロ、PK、死神の精度、ポテチ、フィッシュストーリー、、、あげればキリが無いけど、同じことを色んなテーマで言っている。重力ピエロでは、この悪あがきを気休め、とも呼んでいる。その場限りの安心感が人を救うこともあると。

 

宇宙のことを考えると怖くなる。自分のちっぽけさ、宇宙の時間からいうと人生が一瞬であることが怖い。結局、何をしてもいつか死ぬし、関係ない、と絶望してしまう。だけど、伊坂的にいえば、人生は要約できない、要約しようとして削ぎ落とした下らない会話や瞬間の積み重ねが大事だったりする。気休めだ。

 

大きな物語に対抗するのは、無駄なことかもしれない。だけど、悪あがきくらいしてみよう、どうせ死ぬけど、気休めくらい楽しもう、目の前の人を助けても世界は全く変わらない、だけど、それでいいじゃないか。

 

青臭いかもしれないけど、色んなことを悟って、諦めがちな世の中で、伊坂さんの”無駄な抵抗”はとても心地よく聞こえる。小説で、たくさんの人を動かすことはできないけど、もしかしたら誰かの価値観に影響して、誰かを救うかもしれない。5人くらい。

ムードや空気というものは、誰かの抱いた憎悪や恐怖や不安が、他の人間に拡散したものだ。

モダンタイムスでは、こんなことも言っているけど、逆もしかり。勇気とか楽観も誰かから拡散していく。だから、小学校とか中学校の学級文庫に伊坂作品を置いておいたら、そのクラスから邪悪が消えるかもしれない。もしかしたら、町1つのムードくらいよくできるかもしれない。バタフライ効果的に。

 

何か大きなものに潰されて、息苦しくなっている時に読みたい1冊。

不幸は不幸によって癒される

 

罪と罰〈上〉 (新潮文庫)

罪と罰〈上〉 (新潮文庫)

 
罪と罰〈下〉 (新潮文庫)

罪と罰〈下〉 (新潮文庫)

 

 罪と罰(ドストエフスキー)からの一行

おい、亭主、おまえが売ってくれたこの小びんが、おれを楽しませたと思うのかい?悲しみさ、悲しみをおれはびんの底に求めたんだ

 

貧困にあえぐ登場人物、昔は官吏だったのに、自らその職を捨てる。

そのため、娘は娼婦になり、家計を支えることになる。

父親は娘の給料を持ち出し、居酒屋で酒に変えて、すぐにびんを空にする。

仕事を得て、まともになったかと思えば、すぐやめて、給料を全部酒につぎ込む。

母親は発狂して死ぬ。父親は馬車に轢かれて死ぬ。

残された小さな子供を娼婦は養わなければいけない。

しかし、父親の葬式の日に、賃貸していたアパートから追い出される。。。

 

実際の文章を読まないと、この絶望的な不幸は伝わらないけど、ドストエフスキーの描く不幸には、中毒性があって、思わずのめりこんでしまう。

 

行き過ぎた不幸は書き方を間違えれば、陳腐になるけど、ドストエフスキーの不幸は妙なリアリティをもって迫ってくる。ロシアの話なのに。

 

逆説的だけど、絶望的な不幸は、自分の気分が落ちている時、嫌なことがあった時に、ふれると癒しになる。

 

自分の不幸が相対化されて、大したことじゃないように感じるから。

 

中村文則、太宰治も好きで、不幸なもの、陰のある作品が元々好きというのも理由だが、ドストエフスキーには、助けられていて、気分が落ちた時に意図的に読んでいる。

 

多分、本物のファンからしたら間違った読み方なんだろうけども、自分が悲しい気持ちの時に、中途半端に幸福な物語にふれると、とても空虚に感じてしまう。。

 

やっぱり、ひねくれているからか。

ドストエフスキーから読む、悪魔的理論の実践

 

罪と罰〈上〉 (新潮文庫)

罪と罰〈上〉 (新潮文庫)

 
罪と罰〈下〉 (新潮文庫)

罪と罰〈下〉 (新潮文庫)

 

罪と罰(ドストエフスキー)からの一行。

人間は自然の法則によって二つの層に大別されるということです。つまり低い層(凡人)と、これは自分と同じような子供を生むことだけをしごとにしているいわば材料であり、それから本来の人間、つまり自分の環境の中で新しい言葉を発言する天分か才能をもっている人々です。

 

僕の大好きな作家、ドストエフスキーのエグい一文。

罪と罰の主人公、貧乏学生のラスコーリニコフは、この理論を元に、生殖材料であり、社会の”しらみ”である、悪徳金貸しの老婆を殺害し、金を奪う。

その金を元に社会を変えていく一歩を踏み出そうというのだ。

彼の言葉を借りれば、百の善行の前に一の悪行は許されるという理屈。

社会を良くできる自分のような天才が、社会を良くする元手を得るために、殺人を犯す。これは許されて然るべきである。ナポレオンだって、あれだけの大量殺人を犯しながら、賞賛されているのだから、と続いていく。

 

昔、流行った、マイケルサンデルの「これからの正義の話をしよう」にでてくる1人の犠牲で5人を救うことは許されるのか、という問いと構造は似ている。

 

ただ、僕が印象に残ったのは、理論の正否・良し悪しの議論よりも、理論の実践(主人公曰く”しらみの殺害”)後の、主人公の苦悩である。

 

この苦悩を追いかけていくだけで、小説にどっぷりはまって抜けられなくなる。

 

お金を奪った後も、主人公は、殺人の罪の意識に悩まされる。

理論にのっとれば、生殖材料に過ぎない人物の削除であり、大いなる善行のための”小さな悪行”であるはずなのに。

やがて主人公は、破滅への道を自ら進む。

気づいたのだ。

 

完璧な理論をこしらえても、自分には実践ができないこと、

理論構築と実践はあまりにも別の行為であることに。

 

ドストエフスキーの叫び、”人間の本性を忘れた理性だけによる改革が人間を破滅させる”(解説より)が、約1000ページにわたる苦悩の物語を読むことで、自分の中に染み込んでくる。

 

頭でっかちになって暴走しそうな人に読んで欲しい、

「まあ、肩の力を抜いて、人間的に考えてみようや。神様じゃあるまいし、あなたの理屈が100%正しいわけじゃないんじゃないかな」

と、そっと諭してくれる小説だった。

 

伊坂幸太郎から読む、出会いの哲学

 

アイネクライネナハトムジーク (幻冬舎文庫)

アイネクライネナハトムジーク (幻冬舎文庫)

 

アイネクライネ(伊坂幸太郎)からの一行。 

 俺、出会いがないって理由が一番嫌いなんだよ。何だよ、出会いって。知らねーよ、そんなの

 

恋愛において、人は始まりを重視する。

 

どんな出会い方をしたか、どんな告白だったか、プロポーズの言葉は何か。

 

ドラマを見ていても、人の恋愛話も、その2人が結ばれるまでが面白いわけで、その後のノロケは別に見たいものでもない。

 

でも、ずっと疑問に思っていた。

 

「そんな序盤にピークがきていいのか、あとは人生下り坂か」と。

 

アイネクライネを読んで、このもやもやがすっきりした。やっぱり出会ってからが肝心だ。

 

冒頭の一節から登場人物は、こう続ける。

劇的な出会いにばっかり目が行っていると、もっと大事なことがうやむやになるんだよ。

そうそう、これが僕のもやもや。

出会い方とかそういうのはどうでもいいんだよ(中略)後になって、『あの時、あそこにいたのが彼女で本当に良かった』って幸運に感謝できるようなのが、一番幸せなんだよ

というと?

 もっと簡単に言えばよ、自分がどの子を好きになるかなんて、分かんねえだろ。だから、『自分が好きになったのが、この女の子で良かった。俺、ナイス判断だったな』って後で思えるような出会いが最高だ、ってことだ

 

答えをストレートに言ったわけじゃないけど、僕にはすごく刺さった。

 

お見合い、出会い系、合コン、共通の知人、同じクラス、ナンパ。あるいは落としたハンカチを拾ってくれた、あの人。

 

どんな形で出会いがあるか、分からない。

 

だけど、付き合って過ごした時間とか、結婚生活とか、出会ってから後の方が、自分の物語にとっては、もっと大事で。

 

出会い方に引け目を感じる人はいるかもしれないけど、たとえ、ナンパでも、できちゃった結婚でも、「あぁ、あの時出会えて良かった」と今思えていたら、出会い方は何だっていい。

 

もっというと、「過去の積み上げが現在を規定する」のではなくて、「現在の状態が過去を意味づけする」ということ。

 

人生万事、塞翁が馬。

 

伊坂さんの恋愛小説はキュンとしながら読める青春的要素はないけど、じわりとあったかくなれて、オススメです。

コンセプトのつくり方

 

コンセプトのつくり方 たとえば商品開発にも役立つ電通の発想法

コンセプトのつくり方 たとえば商品開発にも役立つ電通の発想法

「コンセプトのつくり方」山田壮夫

コンセプトは経験的世界という暗闇から物事を照らし出す「サーチライト」です。 

 

商品開発の現場で、コンセプトが最も大事であることを叩き込まれてきた。なんとなくコンセプトって、こういうもの、と理解はしていたが、初めて、短い言葉で、それを美しく定義した文章に出会った。

 

筆者は、コンセプトが無ければ、何も見ることができないという。「切る食器」というコンセプト(フォーク)、「刺す食器」というコンセプト(ナイフ)によって、暗黒の世界がサーチライトで照らされ、人間の認識が始まる。

 

ジャック・デリダのいう、人間は言葉で認識しうる世界しか認識できない、という話に近い。

 

だから、イノベーション・新商品開発は、今ある常識をもとに、新しい常識を見つけること=新しい世界の照らし方を見つけること、と言える。

 

世界は発見されることを待っているのである。いい開発者は、いい発見者であり、モノの見方を変えることができる。

 

たとえば、サウスウエスト航空は、飛行機の新しい価値、「空飛ぶバス」というコンセプトを発見したことで、LCCの元祖とも言えるサービスを生み出した。

 

開発という言葉には、無から有を生む、0を1にする、エジソン的イメージがつきまとうが、実際は、すでにあるものを上手く見つけて価値を生み出す、宝探しみたいにワクワクするプロセスなのだ、と思う。

 

コンセプトのつくり方(山田壮夫)

コンセプトの定義だけでなく、価値の発見の仕方、発見を言葉にしてコンセプトを捕まえる方法論まで、電通出身の筆者が分かりやすく解説する。平易で使い勝手のいいフレームワークや事例も豊富であり、イノベーションに必要な思考方法まで解説。商品開発者やマーケター必読の1冊。

 

最後の味方

 

Aではない君と (講談社文庫)

Aではない君と (講談社文庫)

 「Aではない君と」薬丸岳 

物事のよし悪しとは別に、子供がどうしてそんなことをしたのかを考えるのが親だ 

 

何のために本を読むか。正直、目的なんかなくて、ただ楽しいからだけど、強いていうなら、僕は、優しくなりたくて本を読む。

 

いざという時に、いろんなことを受け止めてあげられる人間でいたいから。

 

子供が人を殺してしまったら。誰もが絶対に想像したくない状況を疑似体験したくて、この本を買った。気分が暗くなったけど、物語に引き込まれて、日本からの帰りの飛行機で、一気に読みきってしまった。

 

殺人容疑をかけられても、子供を支えてあげられるは、やっぱり親だ。親は最後の味方だから。

物事のよし悪しと別に、なぜそんなことをしたのか考える。善悪を超えて、人間そのものを見るなんて、とってもピュアな感情を持てる生き物だから。

 

まだ、子供はいないけど、主人公みたいな親になれるのか。いつかのために、もっと本を読んで準備をしようと思った。

 

Aではない君と(薬丸岳)

殺人容疑で14歳の息子が逮捕された。自分は、果たして息子と向き合えていたのだろうか。何も分かっていなかったんじゃないか。自分の息子がそんなことをするはずがない。もし主人公の立場だったらと、ハラハラしながら、のめり込める小説。少年犯罪、子供、親、被害者、加害者、離婚。色んな痛みを抱えた登場人物たちに胸が苦しくなる。